「KARAの契約解除は他人事ではない」と競技者や水泳そのものについて考え、交流するためのスイムカフェを開催したら、冬なのに熱かった件

KARAの件は実情分からないが、昨日のスイムカフェ後半戦でも話に上がったが、
協会や選手マネジメント側は無条件に仲間であるとは限らない。
利害が逆さになることも珍しいことではないので、
アスリートがリテラシーを持つことは彼らにとって害はあっても利は無い。
だから誰も教えてくれない。


「私は他(ひと)に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。」
夏目漱石「こころ」で滅多に昂奮しない"先生"がお金のトラブルを思い出し、
"私"を委縮させるほど語気を強める。
「責任」は自己に内在させざるを得ない。


「大きい会社に入って安定したいんです」
就活中の学生インタビューでよくある不安定なコメント。
大企業という名の幻想が、求人が求職者を上回っているにもかかわらず
就職難が続くというパラドクスを生み出す。
安定した成績は絶え間ないトレーニングでしか生まれないように、
依存せず自己研鑚するほかない。


世界70億人の中で唯一無条件に仲間であり続けるのは、
悲しいけどもしかしたら生みの親だけなのかもしれない。
無条件の愛情が絶対条件を保ち続ける。
子を放置死させる残念なニュースを聞くと、その絶対条件すら揺らぐ。
結局自己責任以外には、無いのかもしれない、と。


"親教育"という科目において点数も順位もない。子は親を選べない。
教育が適切か、親は自己判断で進むしかない。
親は最大でも二人しかいない。
三人寄れば文殊の知恵、組織になれば質は高められるだろうが、
異なる親が愛情のベクトルを合わせることは不可能だから当然組織化できない。


愛情の対象を子ではなくスポーツとした場合、
愛情のベクトルを合わせることは可能である。
自己犠牲とは言わない。個の利得を超えてスポーツに対する愛情を持つloverが
輪になってコミュニティを形成することができる。


厳しくも優しい愛情を持つ複数の目が適切な"自浄作用"を生みだす。
単体で難しければ競技を超えることもできるだろう。
ソーシャルメディアが全国に点在するloverの物理的&心理的距離を無効化させ、
競技会場や"カフェ"が直接コミュニケーションを生み出し、
コミュニティ形成における手段となる。


スポーツの世界は総体として常に健全を保っているわけではない。
にもかかわらず属するアスリートは知らないことが多い。
放置は無知を野放しにし、過保護は主体性喪失の元凶になる。
コミュニティから発せられる無条件の愛情が、
時には目付役としてスポーツ界の健全化を促し、
時にはアスリートの保護者として彼らの競技力と知力を適度に後押しする。


loverによるloverのためのカフェ。どうやら少なくともswimmingという
スポーツにおいては、そんなloverが各地にいるようです。
そんな期待感を持たずにはいられない、昨日の第1回スイムカフェでした。


「やりたいスポーツ」として常に上位にある水泳。
するスポーツとして、見るスポーツとして、「やりたい」から「やる」へ
導く道はまだまだたくさんありそうです。
昨日も多くのアツい意見が飛び交いました。
道を自らつくりたい方たちが自然と集まり交流し、
前向きで具体的な議論ができました。
行動への転換と量への転換を見据えて、
肩肘張らず今後も継続させていければと思います。


有難うございました。