オリンピック選手と松本清張 (吉見譲さん結婚式)


先週末、大学時代に同じプールで練習をさせて頂いた、アトランタ五輪代表の吉見譲さんの結婚パーティーに参加。

吉見譲選手の戦績

1990年(19歳) 日本選手権 200mフリーリレー 優勝(日本新記録)←日本選手権初参加(リレー要員)
1991年(20歳) 2浪の末ようやく大学に合格
1993年(22歳) 日本選手権 個人で初めて決勝に残り、200m個人メドレー 3位(同着)
1995年(24歳) 福岡ユニーバーシアード大会 200m個人メドレー 2位
1996年(25歳) アトランタオリンピック 200m個人メドレー B決勝進出16位
1998年(27歳) バンコックアジア大会 200m個人メドレー 2位
1997-99年 日本選手権 200m個人メドレー 優勝
2000年 (29歳) 引退

(三浦広司氏のホームページより引用)


当時の競泳日本代表は、高校生がメンバーの中心の中、
インターハイの決勝すら残っていない25歳の選手がメンバー入りしたことは異例のこと。


私が練習をご一緒させて頂いたのは、譲さんが引退を決意された2000年4月のシドニー五輪選考会までの実質約6ヶ月。
私自身は筑波大学への推薦入試を”奇跡的に”パスし、入学前年の末から平日限定で練習に参加させて頂いた。


10も年齢が上の選手に、隣で若人以上の泳ぎを見せ付けて頂き、


「自分もまだまだやれる、伸びる」


と刺激を頂いていたことが懐かしい。


先日も早稲田大学で行われたスポーツマネジメント学会でばったりお会いした際、
留学経験のある譲さんに海外のスポーツについてあれこれ質問していると、


「海外、行っちゃえばいいじゃん。」


とさらりと言われた。


譲さんと話をしていると、常識に囚われることで自分で壁を作ることのもったいなさを気付かされる。


以下は、昨日引用させて頂いた池田信夫氏のブログに対するコメントの引用である。

多作で知られる松本 清張さんは1909年12月21日生まれで、
処女作を発表したのは
1950年の朝日新聞社勤務中に書いた処女作「西郷札」でした。
このとき実に41歳。

人間は今日がスタートだと思えばいつでもそこから始める事ができる、と言うことを教えてくれます。


スタートラインも、ゴールラインも、決めるのは自分しかいない。


譲さん、奥様、心よりお二人のお幸せをお祈り申し上げます。



≪身内ネタ≫


先ほど、四ツ谷ソウル五輪代表のN岡さんにばったり遭遇。


「譲さんの結婚式、用があって行けへんかったわ〜。ほな稽古に行ってくるわ。」


拝見したのはいつぞやの「Tarzan」の表紙以来でしたが、お変わりなくお元気そうでした。